インタビュー|鈴木利和氏(ユニバースプロダクツ)× 齋藤幸一氏(アップライジング )対談

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鈴木利和氏(ユニバースプロダクツ)× 齋藤幸一氏(アップライジング )対談

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ユニバースプロダクツ 鈴木利和氏 × アップライジング 齋藤幸一氏対談

私、齋藤幸一には、森信三さんの言葉で大好きなものがあります。「人間は一生のうちに会うべき人には必ず会える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」 私の人生は、沢山の出会いからどんどん良い方向に変わってきました。皆様も「出会いと御縁に感謝」する生き方をお勧めします。と語る。

株式会社ユニバースプロダクツ 代表取締役 鈴木利和氏×有限会社アップライジング 代表取締役 齋藤幸一氏対談

母の死が分岐点に

株式会社ユニバースプロダクツ 代表取締役 鈴木利和(以下、鈴木):生い立ちを教えてください。

 

有限会社アップライジング 代表取締役 齋藤幸一(以下、斎藤):私は現在39歳。アップライジングを起業して10年目になります。元キックボクサー東洋ウェルター級チャンピオンの父と、新潟県加茂市出身の母との間に生まれ、定食屋さんと仕出し弁当屋さんの長男として何不自由なく生活していました。

母は、私が法政大学4年生(21歳)の時に病気で亡くなりました。私がボクシングの日本代表として、タイのキングスカップに出場し、帰ってきて数日後でした。試合は1回戦でカザフスタンの選手に判定負けをしましたが、決勝戦まで全て見て日本代表の皆と一緒に帰りました。

タイに出発する前の日に病院に行くと、「幸ちゃんなら大丈夫!頑張ってきな~」と母はニコニコして送り出してくれました。帰国し、病院に行くと母は既に意識がない状態でしたので、私は、同じくボクシングのインターハイチャンピオンで法政大学1年生の弟をすぐに呼び出しました。父や親戚は、遠征中の私や合宿中の弟に心配をかけない為、私が帰国するまで危篤状態を黙っていてくれたのです。

私と弟が揃うと、今まで意識のなかった母が少し起き上がり、何かを伝えようと一生懸命に話してくれました。「頑張れ!頑張れ!」と言ってくれていたように思います。

母が亡くなった後は、心にぽっかり穴が開いてしまいました。ボクシングは「強くなりたい!有名になりたい!」の他に、「母に喜んで貰いたい」という気持ちがあったからです。

母が亡くなった後、国体の準決勝で負けても「悔しい」と思いませんでした。その後、大学を中退しプロボクサーにもなりましたが、試合に勝ってもあまり嬉しくありませんでした。日本タイトルマッチをかけたA級トーナメントの決勝戦で負けた時も、悔しくない自分に気付き引退を決意しました。24歳プロアマ合計の戦績は、149戦127勝21敗1分96KOでした。

 

試練の始まり

齋藤:ボクシング時代に使っていた、健康食品の販売を始めました。マルチレベルマーケティングシステム、いわゆるネットワークビジネスでした。しかし、ねずみ講では無く法律に沿い適正に販売されている商品であり、結果の出る凄く価値のある商品でした。「病気で亡くなった母のような人を、一人でも多く救いたい」と言う善の気持ちもありましたが、心の中では「お金持ちになりたい!」という気持ちが強くありました。そして、何故か私の周りからは仲間がいなくなっていきました。

私は、中学で生徒会長。高校、大学でボクシング部の主将で日本一。日本代表、オリンピック代表候補選手。
日本中に仲間がいたはずですが、誰も電話に出なくなりました。「仲間を騙そうと思った事も、仲間からお金を奪おうとも思った事がないのに何故だ!」と、怒りのパワーが出ました。
「俺から離れて行った奴らを絶対に見返してやる!有名になってやる!」と思いました。浜田省吾さんのヒット曲「Money」の歌詞「いつか奴等の足元にBIG MONEY 叩きつけてやる」の気分でした(笑)

私と同じように「絶対にお金持ちになってやる!」と強く思っていた弟も、大学を中退し、私と同じ仕事を一緒に始めました。
当時、上司と3か月に1度位居酒屋に行ったことはありますが、友達はほぼゼロでしたので、友達と飲みに行くと言う事をしていませんでした。

父が作った借金

鈴木:この頃、お父様が借金を作られたのですね。

 

齋藤:父が、商品先物取引に手を出してしまい多額の損失を出し、母親の遺産で作った新しいお弁当屋の店舗と土地、キックボクシングジムを売却しました。

それでも全部は返せず、親戚の協力の元、実家だけは何とか残してもらえました。その時から、今までずっと敬語で話してきた父を恨み、憎むようになりました。そして、壮絶な喧嘩の末、父は家を出て湯西川温泉の住み込みで働くようになります。

私は斎藤家を立て直すため、弟と健康食品の販売を続けるも借金は増え続けるばかり。そして借金が膨らみ続けるのに耐えきれず、弟は健康食品の仕事を辞めてキャバクラのボーイとして働き始めます。その事に対して弟にも怒りを覚え、弟も恨むようになります。今思えば最悪ですね(笑)

妻との出会い

鈴木:この頃、奥様とも出会われたんですよね。

 

齋藤:借金を何とかしようと健康食品販売は続けていて、JR宇都宮駅の通路でチラシを配っていました。ダイエット食品を売る時には、自分の太っていた時の写真を首からぶら下げていました。

当時は、消費者金融の全盛期で沢山の会社がティッシュ配りをしており、私を見て大爆笑している人がいました。私もその人が気になったので声をかけ、健康食品の話をすると使ってみると言うのです。さらに、使って行くうちに仕事としてもやってみたいと言い始め、一緒に仕事をやるようになりました。

その人物こそが、当社の専務でもあり、私の妻のなっちゃんです。

なっちゃんは福の神の様な笑顔で、福をどんどん呼び込み、健康食品も沢山売れました。しかし、私の怒りの波動がその福を打ち消してしまい、二人の借金は増えて行きました。借金が1,000万円以上、月々の返済が2人で60万円になり、健康食品の仕事を辞めました。なっちゃんは、派遣会社として事務員で働く事になりました。

私は、朝から夕方までは牛丼チェーン店で働きました。それだけでは返済が追い付かず、弟に頼み込み夕方から深夜まではキャバクラのボーイさんをやるようになりました。その時が私のどん底です。

築30年のアパートで4畳半が2部屋、お風呂はシャワーなし。テーブルも買えず、段ボールの箱をひっくり返して食事をしていました。1日に使えるお金は、私となっちゃんと娘の3人で500円未満。

もやしをいためたり、お茶漬けやふりかけだけの日もありました。

 

鈴木:今でも忘れないエピソードがあるそうですね。

 

齋藤:当時住んでいた家の近くのパン屋が、前日の売れ残りの商品を「イエスタデーパン」と名付けて、5個300円で売っていました。
1日500円未満で生活する私達には、とてもありがたかったです。その中に、僕もなっちゃんも娘も大好きな「焼きそばパン」が入っている時がありました。人気商品なので、滅多に売れ残りません。入っていた場合は、交代で食べようというルールを決めていました。

ある日、焼きそばパンが入っている時がありました。今回は、なっちゃんが食べる番です。しかし、私は「他のパンに隠れて入っているから、ばれないだろう」と思って食べてしまいました。それがなっちゃんにばれてしまいました。

実は、なっちゃんは茂木高校の柔道部の元キャプテンで国体選手だったので、洞察力が素晴らしく僕のこそこそした動きを一瞬で見抜いたのです。それを知ったなっちゃんは号泣し、娘と実家に帰ってしまいました。

私は、焼きそばパン1個でここまで悲しい思いをさせているのかと、愕然としました。「何としてでもこの生活から抜け出さなければ」と、強く心に誓いました。

廃品回収から始めた新しい事業

鈴木:新しい事業を始められるのですね。

 

齋藤:父が湯西川温泉から戻り、リサイクルショップに入社して廃品回収業を始めました。父が凄く稼いでいるのを見て、私も入社しました。

ゴミステーションに出せないような粗大ゴミを回収し、処分代金を頂くという仕事でした。市の処分場で処分し、差額が利益になると言う、時給や月給制でなく完全歩合の仕事でした。ここで2ヶ月半働かせて頂き、リサイクルの基本的なノウハウを身につけることができました。

そして、父と弟と一緒に「くずやの斎藤」の名前で独立します。毎日が一般家庭への飛び込み営業なので、一日動いても粗大ゴミゼロの可能性もあります。不安もある中、気合いのみで頑張りながら次のステップへと飛躍する機会を探していました。そんな中で出会ったのが、自動車関連企業の鉄クズ回収でした。

自動車ディーラーさんや中古車の修理板金は、事故の修理や車検の修理などで必ず定期的に鉄くずが出ます。その鉄くずを無料で回収し、1Kgあたり5円(現在20~30円)でスクラップ屋さん等に買って貰う事から始めました。
2トン集まれば1万円。4トン集まれば2万円です。毎日、泥だらけ油だらけになりながら死に物狂いで集めまくりました。

そんな自動車屋さん周りを続けて行く中で、スクラップのアルミホイールと出会います。アルミホイールの原料の
アルミニウムは鉄くずよりも1Kgあたりの単価が高く、その当時1Kgあたり140円で売れました。
これを「無料で集めるのではなく、お金を出して買って集めれば沢山集まるのではないか?」と考えやってみると、どんどん集まるようになりました。

ヤフーオークションとの出会い

鈴木:どういう方法で販売されたのですか?

 

齋藤:スクラップで買って集めているアルミホイールの中には、綺麗でまだまだ使えそうな物もありました。でも、借金がまだあったので店舗を出す事は出来ません。
何か方法は無いかと考えている時に、ヤフーインターネットオークションに出合います。これなら、ホイールを洗って写真を撮り、オークションに出品する事で全国の人に見せる事が出来ます。

出品時にほとんどお金はかからないし、落札されてお金を頂いてからホイールを発送すれば良いのです。この方法は、お金がない私達には合っていました。これが非常に上手く行きだしたので、牛丼屋さん時代の同僚やその仲間を雇うようになりました。妻のなっちゃんも、派遣の仕事を辞め手伝い始めました。

そのうち、「ホイールだけでなくタイヤも一緒に販売した方が売れるだろう」と気づき、中古タイヤも集め始めました。しかし、タイヤ付きホイールセットを写真を撮ってオークションに出すのは良いのですが、落札されるまで保管しておく場所が必要です。父と私と弟で意見を出し、最終的には父と祖母が住んでいる実家に置く事になりました。

実家は民家でしたので、物置や押し入れは勿論の事、以前は寝たり起きたり御飯を食べたりしていた部屋がタイヤだらけになって行きました。そこまでは何とか父も我慢していたのですが、タイヤが邪魔になってテレビが見えなくなったり、冷蔵庫のドアが開かなくなったりしてきて、堪忍袋の緒が切れて喧嘩になりました。

結局、タイヤは実家から全部出す事になり、父は実の弟(私の叔父)と一緒に鉄クズ回収に戻る事になりました。
そんな時に、まだまだ借金は沢山ありましたが「どうせ倉庫を借りるのなら会社にしよう」と思い、弟となっちゃんとスタッフ4名と一緒にアップライジングを立ち上げました。

弟がライバル業者に

鈴木:弟さんは、すぐ独立されたのですよね。

 

齋藤:会社を立ち上げて2か月で、弟が独立します。原因は経営方法の不一致です。弟は、今までの方法、すなわちスクラップを集めてキロいくらで売り、その中で使えそうな物は綺麗にしてオークションにし、使えそうなタイヤも集めそれを付けると言う方法です。

私は、会社立ち上げと同時に店頭販売にも力を入れたいと思うようになりました。通信販売で顔の見えないお客様も大切にしながら地元、宇都宮のお客様にも常連になってもらいたいと思うようになったのです。その為には、オークションで仕入れから販売まで1か月以内で短期間にどんどん売る方法と違い、ある程度の量を在庫として置いておく必要があります。その件で弟と大喧嘩をしました。

弟も健康食品時代の借金がまだ無くなってはいませんでしたが、あの頃の苦しい生活には戻りたくない、少しでもリスクがある事はしたくないと考えたのです。

栃木県内最大のライバル業者がいきなり現れたのです。

一緒に独立したのが、弟の同級生で私も7歳の頃から知っている小中高校の後輩の増子君、弟と同級生で私の作新学院ボクシング部の後輩でもある森川君。そして、一緒に牛丼屋さんで働いていたT君でした。私が知っているメンバーだったから、その当時は気分が悪かったです。

あの頃の私は、本当に鬼の形相をしていたと思います。弟とは3年半位、一言も喋りませんでした。弟の結婚式に呼ばれた時も、結婚式の最中に大声で罵声を浴びせるような最悪な兄でした。そんな時の私は「家族3人別々の会社で働いているけど、絶対に俺が一番稼いでやる!昔の恨みも忘れない!BIGになって健康食品時代に連絡が取れなくなった全ての友達をメディア側から見返してやるのだ!」と、常に考えていました。

馬場純一先生との出会い

鈴木:ここで素敵な出会いがあったのですね。

 
齋藤:
その頃、たまたま取引先の自動車解体業の方から「管理者養成学校地獄の特訓」と言う研修を教えてもらい、私は今まで全て独学だったのでちゃんと勉強したい気持ちがありそれに参加しました。そこで出会ったのが、馬場純一先生でした。馬場先生からは数々の事を学びました。大きな声を出す練習も何度もやりました。毎朝朝礼は必ず行い、大きな声で発声する事が重要だと教えてもらってから、すぐに当社でも朝礼を取り入れました。

「「出会いと御縁に感謝」です」という言葉と、名刺を頂いたら3日以内に礼状を書く事も教えてもらいました。馬場先生は、「世界には60億人以上いる中で、名刺交換をするに至るという事はものすごい確率なのですよ。今後の人生を大きく変える事になる出会いかもしれません。その出会い自体にまずは感謝するのですよ」ともおっしゃいました。私はそれ以来、名刺を頂いたら三日以内に礼状を書く事をずっと続けています。

また、江戸しぐさ、礼儀文化も教えてもらいました。江戸時代の武士は、道を歩いていて向かいから歩いてくる武士と脇にさした刀がぶつからない様に、体を斜めにして歩いたそうです。また、宿に泊まっても備品等は使わずに浴衣、手ぬぐい、石鹸、歯ブラシなどは全部自前で使っていたそうです。これは、物を出来るだけ無駄遣いしないようにするためだそうです。さらに、宿での食事の後は、誰も何も言わずとも食器などを全て綺麗に片づけて行ったそうです。また、「履物はきちんと揃える。ほかの人の靴が揃っていなかったら揃えてあげる。こういった礼儀作法をするのですよ」と教わりました。これらのことを会社で実践すると、会社は良くなって行きました。

室さんとの出会い

鈴木:ここでも、出会いがあるのですよね。

 
齋藤:
会社を立ち上げて1年半後に借金が無くなりました。これを機会に、なっちゃんと娘と旅行に行く事を決めました。
僕には友達がいませんでしたが、健康食品時代のずっと上のランクだった、僕らのどん底時代時代から、ずっと気にかけてくれた室さんという方がいました。この方は、斎藤一人さんのCDや書籍を送ってくれていたのです。

その熱海に住んでいる室さんに会いに行く事に決めました。3人にとって、7年ぶりの旅行でした。借金返済まで、1年のうち360日は仕事でしたので、娘を旅行に連れて行く事は無理でした。室さんとの再会は、本当に感動し涙が出るくらいうれしかったです。
娘は、室さんの熱海の自宅につくとハンモックで楽しそうに遊んでいました。夜には、居酒屋で飲み会が始まりました。
飲み会も超久しぶりです。

しかし、私が室さんに向かって話していたことは「父が先物取引で失敗した。弟が独立したのです。俺から去って行った奴らを見返したいのです」と次から次へと愚痴・文句・人の悪口ばかり。それを、ずっとニコニコしながら聞いていた室さんがやっと口を開きます。「斎藤君さ、久しぶりに会って楽しい飲み会にしようと思っているのに、あいつの悪口、こいつの悪口じゃ少しも楽しくないよ。もっとワクワクするような前向きで楽しい話をしないかい?」と言ってくれたのです。

この時にはっと気づきました。「もう、人の悪口を言うのは辞めよう。人の良い所を見るようにしよう」と決めました。
その後に、元京都大学総長の平澤興さんの「人の悪口しか言えない人は、もう成長能力のない人であり、
人の短所しか見えない人は、成長の止まった人である。」という言葉とも出会いました。この時から「常に人の好い所を見よう。人の短所に目を向けるのを止めよう」と決めました。

また、この時室さんから斎藤一人さんの言葉を教わります。「斎藤君、他人を許すのだよ。他人を許すと、自分の心も緩むから。
自分の心が緩むと、体中の筋肉が緩み病気になりにくくなるよ。また、自分のやってきてしまった過去の行動・言動から後悔するのを辞めて自分を許すんだよ。自分を許すと楽になるよ」と言ってくれました。
この時に今までの全ての事、全ての人を許す事が出来ました。父と弟が許してくれるかは別にして、自分は二人を許そうと決めました。

父と弟との和解に

鈴木:その後、お父様と弟さんとはどうなったのですか?

 

齋藤:その後、仕事は順調に進みます。起業当初は1階と2階合わせて50坪だった店舗から、町外れではありますが700坪の店舗に移動します。

1年目の売り上げが1億2千万円でしたが、2年目には1億8千万円になりました。野立て看板の効果などもあり、少しずつ店頭販売の割合も伸びてきました。

その後、輸出用のタイヤの販売も強化し、自社で海外にコンテナを送る事なども出来るようになってきました。アルミホイール修正も自社工場で出来るようにし、ガリ傷や曲り修正なども始め、「自分達だけが儲ければいい」と言う考えから、限りある資源を効率よく再利用するという、リサイクル業としての本来の役割に、少しずつではありますが気付き始めます。

仕事が順調に進んでいるある日、父が苦しそうにしていると祖母から電話がありました。
父と会うのは凄く久しぶりでしたが、強い父が今までにない程苦しんでいたのですぐに救急車を呼びました。
弟にも約3年ぶりに電話をし、病院で久しぶりに再会します。その日は「肺気胸」と診断されましたが、取りあえず一日入院することになりました。

しかし、次の日に医者から「親族を集めてほしい」と言われたため、私と弟と伯母と叔父で話を聞くと、血液の病気である事を伝えられます。

私か弟のどちらかが、一日中つきっきりでいないと何も出来ない状態だったため、弟と1日ずつ交代で父を見るようになります。父の病室の椅子や簡易ベッドで寝て、朝交代する毎日の中で少しずつ私と弟の間に会話が増えていき、仲が良かった頃のように戻ってきました。
父にも「色々あったけど本当にごめんなさい」と謝る事が出来ました。

しばらくして父の病状が良くなり、自宅に戻れる事になりました。

その頃には、父とも弟とも仲直りしていました。弟に、「お前の会社どうなのだ?」と聞くと「北京オリンピックも終わって鉄やアルミの値段も下がり、リーマンショックの影響でヤフーオークションでも売れず全然ダメなんだよ~」と言うので、「じゃあ、うちの会社で一緒にやるか?」

という話になりました。

そんな頃、父の病気が悪化し、また入院します。父に、弟と仲直りできた件や他人を許せるようになった件、売り上げが3億円を超えた件を話すと「幸一、たいしたものだよ。大きくなったなあ」と喜んでくれました。父はその後、61歳で亡くなりました。

3.11以降の活動

鈴木:被災地に、炊き出しにも行かれたんですよね。

 

齋藤:父が亡くなり悲しんでいましたが、「現実を受け止め、皆で協力してやって行こう」と決め、弟も一緒に働き始めてすぐ、3.11の東日本大震災が起きます。

3.11については、皆様も知っている通り世界中が悲しみ、沢山の方々が何とかしようと助けの手を伸べてくれました。しかし、私は今までボランティア活動をやった事が一度もなかったため、すぐに現地には行きませんでした。「まずは、自分の会社と家族、従業員の家族が先だ」と都合の良い言い訳をしていました。
そんな私に、居酒屋CAROLのマスター菅沼ケントさんが「東北に炊き出しに行こう」と電話をくれました。
菅沼さんと私は矢沢永吉さんが好きで仲良くなりましたが、同じく矢沢永吉さんファンで共通の友達の喜連川町のラーメン専門店EY竹末の竹末真和さんが、数名のラーメン屋さんと一緒に炊き出しに行くと言うのです。

4月7日、宮城県気仙沼市にある階上中学校に炊き出しに行きました。

現在の栃木照る照る坊主の会の和知会長達と一緒に、650食の炊き出しをしました。「温かいラーメンを食べるのは震災後初めてだ!」と
皆喜んでくれました。私は、ラーメンを取りにこれない体育館の中のお年寄りに、ラーメンを配達する役目になりました。
僕はいつも元気なのですが、いつも以上に大きな声でラーメンを配っていました。

そんな時に、私が配達したラーメンを食べてくれているお婆ちゃんが、泣きながら「ラーメンが美味しいだけじゃなくて、栃木から来てくれて、元気に声をかけてくれる貴方達の言葉が嬉しいんです。一生懸命生きるね」と言ってくれました。

その言葉に衝撃を受けました。「僕はいつもと変わらない事をやっているだけなのに、こんなに喜んでくれるんだ。ずっと泊り込みで毎日何かが出来る訳でもない。沢山のお金を寄付する事も出来ない。でも、どんな時でも他人より大きな声で場を盛り上げる事は出来る!僕は、コレをやっていこう!これで喜んでくれる人がいるかぎり続けて行こう!」と思いました。この時から、他人の喜びが我が喜びへと変わったのです。

それからも、何度も東北三県には皆と一緒に炊き出しに行きました。

それ以外にも、栃木県愛の各種イベントでの飲食物の売り上げを被災地に寄付したり、栃木さくらイレブンの活動として、岩手県、宮城県、福島県の3県の津波で流されたり、塩害で枯れてしまった場所に桜の苗木を植えたりしています。

「自分の庭に、復興のシンボルの桜を植えたい」と言う場合にも柔軟に対応し、2015年7月現在で1,800本以上の桜を植樹しています。

 

鈴木:3.11以降、会社としても新しいことに取り組み始めたのですよね。

 

齋藤:大きく、次の6つがあります。

①近隣小学校での挨拶運動

各店舗の近くの小学校で、交通安全運動と同時に、子供達への挨拶運動を行っています。安全に横断歩道を渡れるだけでなく、保護者とは違う、近隣企業が挨拶運動をすることでコミュニケーション能力が向上し、日本人本来の優しさが子どもたちにも伝わります。
また、同時にゴミ拾い活動も積極的に行っています。

 

②掃除に学ぶ会や倫理法人会等でのボランティア清掃への参加

イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんが立ち上げた、日本掃除に学ぶ会の中の教え「ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる―心を洗い、心を磨く生き方」を実践しています。
社長だけでなく、従業員やその家族も参加しています。

 

③スポンサー活動

地域社会活動の一環として、栃木県内のプロスポーツチーム(プロバスケットボールのリンク栃木ブレックス、サイクルロードチーム、宇都宮ブリッツェン、那須ブラーゼン、アイスホッケー HC日光アイスバックス サッカーJFLの栃木ウーヴァFC トライアスロン宇都宮村上塾)や各種イベント(うつのみや花火大会、宮祭り、みやラン、大道芸人フェスティバル等)に協賛しています。
応援する事で地域の方々が凄く喜んでくれて、優しい気持ちになります。

 

④小中学生への講和

宇都宮ロータリークラブや栃木照る照る坊主の会、または地域自治体からの要請により、職業人に学ぶ会や総合的学習の時間などで当社の仕事内容などを講和しております。

小中学生の頃から、仕事や就職に対して真剣に考える事が出来ます。

 

⑤児童養護施設の支援。

足利市泗水学園、イースターヴィレッジを中心に、児童養護施設に入所している子供の心と体の成長の為に物資や遊具の差し入れをしたり、一緒に遊んだりしています。

色々な事情があり親と一緒に生活できない子供たちを応援する事により、成年後に強く生きて欲しいためと、同じ様な立場の子供たちを将来的に応援してもらいたいと言う思いがあります。

 

⑥障がい者雇用。

宇都宮店では、社会福祉法人恵友会 社会就労センターいぶきさんに「施設外就労」と言う形で週に4~5日障がい者さん2名、監督者さん1名の計3名と一緒に働いています。障がい者さんと共に働くことで、日本人本来の優しい気持ちになることが出来ます。今後の日本の発展のために、障がい者雇用は必要不可欠です。

このような取り組みを一気にやり始めました。まさに人が変わったようでした。

そして、ふと「僕は今、他人の喜びが我が喜びとなり、どうやったら人を喜ばせられるか。ボランティア作業を楽しくやるか。
どうやって他人を元気人させる事が出来るかを真剣に考えている。でも、東北三県や栃木県の人以外には何もできてない」と思いました。

そんな時に知り合いが、群馬県太田市の良い物件を紹介してくれたんです。
工業団地内にあり、一般の方はなかなか見つけにくい場所でしたが、約1,000坪あったため、そこに太田店を作ることにしました。
太田店立ち上げと同時に、近隣の小学校への挨拶運動も始めました。最初は不審がられていましたが、今では子供たちがハイタッチしてくれるようにまでなりました。
太田店でも、施設外就労制度で障がい者雇用を始める事が出来ました。足利市の駅前で毎月一回清掃作業も行う事も出来るようになりました。
群馬県でも、自転車チーム「群馬グリフィン」の応援も始めました。

鈴木利和さんとの出会い

鈴木:ここで、また新しい出会いがあるのですよね。

 

齋藤:はい。私の人生を一気に加速させてくれた、鈴木利和さんと出会います。そうです貴方です(笑)鈴木さんがFacebookからのメッセージで「是非ともお会いしたい」と言ってくれたんですよね。

全く面識がありませんでしたし、仕事の系統も趣味も全く合わなそうだったので、正直二度目は無いだろうと思っていました(笑)
そこでPICCを紹介してくれました。

鈴木さんがお話してくれたPICCの話の中で、「途上国の教育支援と小中学校への道徳授業」と言う部分に強烈に惹かれました。そして、何故か「この人の話に嘘はないだろう」と思いながら話を聞いていました。

わたしは、その場でサインしPICCに入会しました。PICC入会後に経営実践研究会のことも知り、強烈に学び始めます。

今まで無借金経営だったので借金を非常に恐れていた時期がありましたが、「実質無借金経営」と言う言葉を知り、自分の視野はどんどん広がって行きました。そして、環状線沿いの1,800坪の土地に宇都宮店の移転を決意します。

それからは、公益資本主義の実践をどんどんやって行きました。

一つは途上国支援としてベトナムを選び、ベトナム人技能実習生を今年から毎年3名受け入れます。

技能実習生の方々には、塗装を中心とした日本の技術を学ぶだけでなく、倫理法人会の職場の教養を使った朝礼にも参加してもらい、日本の道徳も一緒に学んでいます。3年学んで頂いた後にはアップライジングベトナム店で働いてもらう予定です。

このような技能実習生の受け入れと同時に、海外進出をして行くモデルのお手本にもなります。

また、当社の朝礼は栃木県でも群馬県でもナンバーワンの元気な朝礼だと思います。当社の様な元気な朝礼を活用した企業を増やしていく事も、日本創生につながると思います。

その他にも、タイヤ1本を販売するごとに20円を途上国支援に使います。

半分はNPO法人テラ・ルネッサンスを通じてカンボジア周辺の地雷の撤去やアフリカの元子ども兵社会復帰プロジェクトに寄付し、もう半分は公益財団法人CIESFさんを通じ、カンボジアの基礎教育の質の向上を主な目的とし、その上で高度人材育成も行い国の発展を支援します。

施設外就労制度を使った障がい者雇用も今までの3倍に増やし、障がい者さんと共に未来を変えて行ける職場を作ります。

アルサポも始めました。アルサポとは全国の皆様から不要なアルミホイールを送って頂き、アルミホイールのリサイクルとNPO法人テラ・ルネッサンスの支援をするプロジェクトです。

ご家庭の倉庫やガレージで眠っているアルミホイールをアルサポへ送ることで、そのアルミホイールは寄付金となり、テラ・ルネッサンスの支援活動に役立てられます。

またそのアルミホイールを貴重な資源ととらえ、国や地域を越えて有効利用させて頂く活動となっております。

 

鈴木:日本初の事にも取り組み始めたのですよね。

 

齋藤:新店舗では、ドライブスルーによるタイヤ買取りシステムを導入しました。お客様を待たさないで、買取する事が出来ます。

また、これも日本初ですが、中古タイヤショップで猫カフェの様な猫ルームを作りました。そこで猫の譲渡も始めました。猫の殺傷処分ゼロを目指して、猫を正しく飼える方への譲渡を仲介しています。

さらに、高齢化社会に伴い、出張でのタイヤ交換サービスも始めます。

環状線や大きな国道での運転はしないけど、近所のスーパーまで車で行く方にとっては凄く重要なサービスだと思います。

このような新しい事を沢山導入しながらも社員を大切にし、取引先を大切にし、お客様を大切にし、地域社会を大切にして行きます。

そして100年企業をめざし、世界中の自動車関係者の方々が企業視察に訪れる様な会社を目指しています。

 

鈴木:ありがとうございました。

【在り方Webより 鈴木利和氏(ユニバースプロダクツ)× 齋藤幸一氏(アップライジング )対談

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<プロフィール斎藤 幸一氏

アップライジング 代表取締役
1975年11月14日 栃木県宇都宮市生まれ。作新学院高校英進部から法政大学経営学部へ進学。高校、大学時代にボクシング部のキャプテンを務めた。プロボクサーとなるが24歳で引退後、平成18年、有限会社アップライジングを設立。現在、代表取締役社長に就任し、世界中のタイヤ関係者が修行に来る中古タイヤ屋さんを目指して、新たな世界を極めようと日々奮闘している。

<インタビュア鈴木 利和氏

株式会社ユニバースプロダクツ 代表取締役
株式会社フォーチュン・サークル 代表取締役
有限会社アドバンスカンパニー (エステティック『ジョビオ』)代表
PICC 栃木支部 支部長

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